出雲国風土記・現代語訳:出雲郡

現代語訳

出雲大川(いずも)。:斐伊川

源は伯耆(ほうき)と出雲の二国の堺にある鳥上山(とりかみ)から流れ、仁多郡横田村(にたぐんよこたむら)に出て、横田、三処(みところ)、三澤(みざわ)、布勢(ふせ)などの四郷を経て、大原郡(おおはら)の堺の引沼村(ひきぬ)に出て、来次(きすき)、斐伊(ひ)、屋代(やしろ)、神原(かんばら)などの四郷を経て、出雲郡(いずも)の堺の多義村(たげ)に出て、河内(かわち)、出雲(いずも)の二郷を経て、北に折れてさらに西に流れ、伊努(いの)、杵築(きづき)の二郷を経て、神門水海(かんどのみずうみ)に入る。

これはいわゆる斐伊(ひ)の河下である。河の両辺にはあるところは土地が肥え、穀物や桑・麻が枝をたわめるほど稔(みの)り、人々の豊かな薗である。また、あるところは土地が肥え、草木が生い茂っている。

年魚(あゆ)・鮭(さけ)・麻須(ます)・伊具比(いぐい)・魴鱧(むなぎ)などの類があり、潭湍(ふちせ)に双び泳ぐ。河口から河上の横田村までの間、五郡の人々は河を便宜に暮らしている。〔五郡とは、出雲・神戸(かんど)、飯石(いいし)、仁多、大原郡である。〕

孟春(むつき)から季春(やよい)まで、材木を流すことを検閲する船が、河の中を上り下りする。

意保美小川(おほみ)。:出雲市河下町の唐川川

源は出雲御埼山(いずものみさき)から出て、北に流れて大海に入る。〔年魚が少しいる。〕

土負池(つちおい)。:不詳

周りは二百四十歩ある。

須々比池(すすひ)。:不詳

周りは二百五十歩ある。

西門江(にしかどのえ)。:不詳

周りは三里一百五十八歩ある。東に流れて入海(いりうみ)に入る〔鮒(ふな)がいる。〕

大方江(おおかた)。:不詳

周りは二百四十四歩ある。東に流れて入海に入る。〔鮒がいる。〕二つの江の源は、田の水の集まる所である。

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原文

出雲大川 源自伯耆與出雲二国堺鳥上山流、出仁多郡横田村。即経横田・三處・三澤・布勢等四郷、出大原郡堺引沼村。即経来次・斐伊・屋代・神原等四郷、出出雲郡堺多義村。経河内・出雲二郷、北流更折西流。即経伊努・杵築二郷、入神門水海。此則所謂河下也。河之西邊、或土地豊沃、土穀・桑・麻、稔?枝、百姓之膏腴薗。或土體冫酉冫平、草木叢生也。則有年魚・鮭・麻須・伊具比・魴鱧等之類、潭湍雙泳。自河口至河上横田村之間、五郡百姓便河而居。〔出雲・神門・飯石・仁多・大原郡。〕起孟春至季春、校材木船沿泝河中也。

意保美小川 源出出雲御埼山。北流、入々海。〔有年魚少々。〕

土負池 周二四十歩。

須々比池 周二百五十歩。

西門江 周三里一百五十八歩。東流、入々海。〔有鮒。〕

大方江 周二百三十四歩。東流、入々海。〔有鮒。〕二江源者、並、田水所集矣。

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